ナシノオト

短歌について。

4月23日 文章の自画像

許せない自分に気づく手に受けたリキッドソープのうすみどりみて 穂村弘

 

久しぶりに労働をした。いわゆる日雇いというやつで、半日のあいだ、私はずっとコンタクトレンズの割引券を配っていた。

 

午後から雨がぱらついて、私は時々くしゃみをした。でも2秒後には表情筋をやりこめた。

たぶん同情を買って、かっちりしたお兄さんが「ありがとう」と言ってビラを受け取ってくれた。

でもほとんどの人が通りすぎていく。信号が青になると人が押し寄せてきて、店から出ていく人もなだれ込む。人と人がぶつからないように通り過ぎていく。

彼らの誰も私の名前を知らない。私も彼らの名前を知らない。名もなきキャッチが名もなきフライヤーを配る。名もなき客が通り過ぎる。すれ違いに次ぐすれ違い。世の中ってつまりはこういうことなんだよなぁ、とぼんやり考える。

間違いなく、世界は私を必要としていない。だけど親や友人が私に何かの像を読みとって、その像を求めようとする。だから私は実際には親しいひとから必要とされているだけなのに、あろうことか自分が世界から必要とされているんだと勘違いしていた。

私は世界をすごく小さいものだと考えていた。私にとっての世界は自分の徒歩圏内のものでしかなかったと思う。自分の周りだけを見て、それを世界だと勘違いしていた。だからこれまでないタイプの人と出会うとかなり動揺した。

世界を「近所」と勘違いしていた上に、これまでは誰かに必要とされたくて、これまで周囲の求める像に自分をはめ込もうとしていたと思う。だけど、そうして出来上がった「自分」は彼らと別れるのと同時に消えてしまう。そうして私の像は捨てられていく。

私は一体、何枚の像を捨てたのだろう?あと何枚残っているのだろう?よくわからない。ひょっとするともう最後の一枚かもしれない。

べりべりと自分の像を剥がすのをやめたい。痛いから。世界から必要とされなくても、誰からも必要とされなくても、私は生きて居る。そして私は私を必要としている。もうそれで充分じゃないか。

真珠色のメイク落としで、じんわり目のよごれを落とした。鏡に映った自分は微妙に幼い顔をしている。